政治そのほか速
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「覚悟はしていたけれどショックです」。米朝さんと60年以上親交があった姫路市新在家本町3、日本舞踊家坂東大蔵さん(84)は声を落とした。昨年6月、米朝さんの妻・絹子さんの葬儀で出会ったのが最後。「体調が悪く、別人のようだった。その後は、こちらから会うのを遠慮していた」と話す。
18歳のころ、姫路で落語家を目指していた米朝さんと出会った。当時、上方落語は衰退し、風前のともしび。「落語家になる」と聞いたときは将来を心配し、反対したという。
同じく芸の道を進んだ坂東さんに米朝さんは「芸人は末路哀れを覚悟せなあかんで」という言葉を贈った。友情は途切れず、坂東さんは米朝さんを本名(中川清)の「キヨシさん」と呼び続けた。「落語が好きで好きで追究してきた。ずぶの素人から努力と才能でここまできた。大きな喪失。寂しい」と肩を落とした。
上方演芸研究家で近畿大学非常勤講師の古川綾子さん(42)は「いつもお世話を掛けます、と深々と頭を下げられ、何でも優しく教えてくださった。一生懸命に介護をされるご家族の様子に、みなさんを大事にされていた米朝さんの人柄を感じていた」と振り返った。
米朝さんと20代から親交がある演劇評論家権藤芳一さん(84)=京都市=は「覚悟はしていたがショックだった。べーやんは研究者も及ばない深い知識を持ち、上方落語を全国区にした人。生きているだけで上方の落語家たちの精神的支柱となっていただけに残念だ」と悼んだ。
雑誌「上方芸能」(大阪市)発行人の木津川計さんは「戦後、どん底だった上方落語界を復権させた最大の功労者。桂枝雀さんや桂吉朝さんらを育て、60人以上の米朝一門を率いて盛り上げてきた。長く患っていらっしゃったが、生きてさえいてくだされば皆が安心できる存在だった。とうとうその日が来たかという感じだ。まさに巨星落つ、という言葉がふさわしい」と惜しんだ。
70年代から米朝一門にネタを提供している落語作家小佐田定雄さん(63)=大阪市=は「演芸の名人であり、学者であり、教育者であり、肩書を全部外したら『世話やき』やった」と振り返る。
「理性では『いつかは』という思いはあった。ただ、感情では『あの人は死なん』と思っていた」。高座に出なくなっても、入院したと聞いても、どこかで自分のネタを聞いていて、アドバイスをくれる、そんな安心感があったという。
「同じ空の下におってくれるだけでよかった。これから、どこに向かって球を投げたらええんか」。小佐田さんが声を落とした。