政治そのほか速
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「自分がいなくなっても、つながりが途切れず深まっていくのを見るとホッとする」と話すのは、「認定NPO法人育て上げネット」若年支援事業部スタッフの吉岡理香(24歳)だ。
運輸業を営む父親とパートで働く母親、2歳年上の姉の4人家族。広島県江田島で生まれ育った。江田島には公立の小学校、中学校、高校があったが、両親の意向により広島市内の学校に通った。市内へ通勤する大人に交じり船で通学することに「当たり前の日常だったので嬉(うれ)しいとも、嫌だとも思ったことはない」と話す。
中学、高校も島から通学していたが、大学受験の準備のため、高校3年生の途中から市内で一人暮らしを始める。「勉強をしていればだいたい何でもうまくいく」と思ってきた吉岡であったが、受験を目前にした年末に突然、自分が友人らを見るときの物差しが成績の良し悪(あ)しになってしまっていないだろうか、と疑問を持った。
どうしていいのかわからないほどの衝動に、とにかく「勉強と一定の距離を取らなければやばい」と考え、大学受験をしないままに高校を卒業する。元来、勉強することが好きな吉岡は、勉強したい気持ちを捨てきれずに浪人を選択する。
転機となったのは、アルバイト先に営業で来ていた男性の言葉だった。「大学という学び舎(や)は勉強するのではなく、勉強以外のことを学ぶ場所だ」。海外のビジネススクールを卒業しており、吉岡からすれば「勉強がとてもできるひと」ではあるが、勉強と学びをわけて語るのが印象的だった。
「そこ(大学)に行けば変われるかもしれない。勉強から離れた視点を持って大学へ行こう」と決め、成城大学経済学部経営学科に進学する。偏差値で選ぶと過去の自分に戻るのではという不安から、「地元の人間が知らない大学」を探した。学部や学科にこだわりはなかったが、親の意見も取り入れる形で経営学科を専攻した。
「楽しみたい」。大学生活に吉岡が求めるものはシンプルだった。部活やサークル、学校のキャリア・プログラムなどにも積極的に参加した。1年生の夏休み前、1年間休学してフルタイムでNPO活動に従事していた先輩と出会った。「社会の課題、解決方法。実際に組織を通じて変革できたこと」など嬉々(きき)として話す姿に、そのような生き方や働き方ができるなら自分もやりたいと素直に思った。
そして3月11日、東日本大震災が起こる。NPO活動にかかわり始めていた吉岡は、次々と被災地に入っていくNPOの代表の情報をTwitterやFacebookで眺めていた。「これほどまで行動できるひとたちがいることに驚き、学生という守られた身分であっても一歩踏み出せない自分自身の存在を認識させられた」という。以来、自分が社会のためにやれることは何かと考えるようになる。
いまの自分が社会に出て役に立つのか。認めてもらえるのか。本当に自分がやりたいと思っていることができるのか。大きな不安と大きな期待の狭間(はざま)で揺れる吉岡は、学生向けのものから年代を問わないさまざまなイベントに参加するようになる。そして、ある被災地関連のイベントで認定NPO法人育て上げネットの存在を知った。
表層的な部分では特に問題なく見られるが、自分自身や自分と家族、自分と勉強、自分と社会との関係性で悩みながら生きてきた吉岡は、同世代の若者とその保護者を支援する仕事に強く関心を持った。
そして、大学2年生の8月に吉岡は1通のメールを育て上げネットに送る。「大学二年生ですが、御社で働きたいんです」という文章を書くまでは早かったが、決断のワンクリックがなかなか押せなかった。「働きたいという気持ちはあったが、大学を辞める決意まであったわけではない」と振り返る。2週間ほどのインターンシップを終えた9月、吉岡は大学に中退届を提出する。「震災を機に一日の大切さを感じるようになった。何か価値を提供したいとおぼろげながら考えていた気持ちが、メール送信のボタンをクリックしたと同時に、行動していくという決意に変わった」というのが理由だ。
アルバイトを経て、2012年4月から正社員として同組織で働いている。就労支援プログラム利用者には、自分よりも年上の若者が多かった。右も左もわからなかったが、吉岡は構えることなく自然体で若者にかかわり、自然であるからこそ若者に受け入れられてきた。若者とともに汗を流し、地域で活動し、被災地での合宿訓練への引率責任者も担った。就職活動などの出口よりも、支援の入り口あたりに吉岡はいる。
「初めて私たちの場に足を運んでから“馴染(なじ)む一歩”を大切にしています。何か気になることはないだろうか。笑顔を見せてもらえるだろうかと考えながら、少しでもこの場の楽しさを感じてもらえるようにしています。つながりが生まれれば自然と次の目標に足が向いていくように感じます。だからこそ、そこに注力しています。理想は、つながりの輪から自分が抜けてもそれが継続すること。学生時代から意識してやっていることとあまり変わっていませんが」と笑いながら話す。
今夏から、若年支援事業部を少し離れ、困窮家庭の子どもたちの学習と生活支援を担当している。目の前にいるのが子どもであっても、若者であっても、吉岡は変わらぬ自然体で接している。