政治そのほか速
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おてんばな子で、家事も嫌い。掃除や洗濯をして一生暮らすのはごめんである。女性は結婚して家庭に入るのが一般的な時代でしたが、自分は仕事に就くんだと幼心に思っていました。
大阪の高等女学校に入り、英語の先生が人生の手本になりました。知的で、個性的だった。その先生方が出た学校が、東京にある津田塾専門学校(現・津田塾大学)。さらに、仲の良かった友人のお姉さんも津田で学んでいて、帰省の時にトランクを手に近くの駅に降り立った姿に憧れたものです。そこに行きたいと思い、17歳の時、親元を離れて入学しました。
でも、理想と現実のギャップは大きかった。食糧事情が悪く、寮の食事も粗末なものでした。授業では、英語の字引ばかりひかなきゃいけない、教科書もつまらない、面白い先生も少ない……。津田の中で私、優等生ではありませんでした。勉強そっちのけで、演劇部の仲間やクラスメートと遊んでいました。寮でのおしゃべりも楽しかった。
後々、後悔はしています。その後の職業生活で英語が大事だったけれど、思うように英語が使えないのは、津田でさぼったからですね。
津田を出て、東大法学部に進学しました。法学部を出ておけば男の子と対等にスタートを切れると思ったのです。国家公務員試験を受けた動機も同じです。
10代後半の頃、親のそばにいる方がずっと楽というのはわかっていた。でも人生、飛ばなきゃと思っていたのね。飛ぶにはエネルギーがいる。その原動力になるのは憧れなんですよね。津田は、私が東京へ出るきっかけを作ってくれた憧れの学校。津田を出たことで、人生が広がりました。(聞き手・山田睦子)
(2014年12月11日付読売新聞朝刊掲載)