政治そのほか速
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今、教育をめぐる状況は絶え間なく動いている。私たちは動いているものをとらえ、その動きをよき方向へと変えていくことを求められている。古代哲学者ゼノンが言ったとされる「飛んでいる矢は止まっている」という話は、「ゼノンの逆説」と呼ばれる。このコラムでは、ゼノンのように、動いている教育の一瞬一瞬をとらえて、ささやかな方向修正を試みたい--。
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4月。学校では新たな年度が始まり、入学式や始業式、新入生オリエンテーションなどで、学ぶ意味や学び方について、教師やゲストから話がなされる。そうした話は、「あなたは、あなたのために学びなさい」という論理になりがちである。学んだことはきっと大人になって活(い)かせるとか、学ぶことはあなたを成長させるとか、そういった利己的な論理が展開されるのである。
だが、こうした話が子どもの学習意欲につながるとは考えられない。少子化で受験は楽になり、学歴が将来の成功を約束するわけでもないことに、子どもたちは気づいている。自分のためならあまり学びたくないと思って、当然である。
発想を変えよう。利己から利他へ。自分のために学ぶのでなく、誰かのために学ぶ。社会に反感をもつ子どももいるかもしれない。それでも、多くの人たちが作った社会から恩恵を受けてきたはずだ。社会に貢献できる人間へと成長し、恩を返すべきである。
それでも納得できないなら、「情けは人のためならず」ということわざを思い出そう。利己的な態度を取る人は応援されないが、利他的な態度を取る人は応援されやすい。評判が伝わりやすいネット社会では、こうした傾向は強くなっている。やりたいことがあるなら、利他的な態度を示し、多くの人に応援してもらうのが実は早道だ。
もちろん、偽善的な態度をとればすぐにバレてしまう。誠心誠意、利他的でなければ意味がない。自分がやりたいことを、「誰かのために」という形の夢、すなわち「利他的な夢」として描くことこそ、この社会を生きていくために必要な知恵である。そして、「利他的な夢」のために、教養としての知識や技能を学ぶのである。
道徳を教科化する方向が決まり、2020年(平成32年)からの実施に向けて準備が進められている。やがて導入される「特別な教科 道徳」で必要なことは、まさに「利他的な夢」を描くことの必要性を理解させることであるはずだ。
世のため人のために貢献すべきだと納得すれば、正直、正義、思いやり、公共心といった道徳教育が扱うことすべてにつながっていく。「情けは人のためならず」を根幹にして、「特別な教科 道徳」の体系を構築していこう。
利己的な態度は自分のためにならず、利他的な態度は自分のためにもなる。人は逆説的である。