政治そのほか速
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敗者にも歴史あり
バルスパー選手権最終日の大混戦を眺めながら、いくつかの過去の場面が頭の中に蘇った。
首位を走っていた32歳のライアン・ムーアは、今では2歳半の息子の父親だが、3年前、シュライナーズホスピタル・オープンで米ツアー通算2勝目を挙げたときは、その息子はまだ生まれる直前で、ムーアは大きなお腹を抱えた愛妻と並んで表彰式に臨んでいた。
あのときは、2009年の初優勝から3年ぶりに勝利を挙げて、ムーアも愛妻も夢見心地の表情だった。そして、あのときはまだこの世に生まれ出ていなかった子供が、今大会では元気よく走り回っていた。子供が誕生し、成長を遂げている歳月の中で、父親も負けじと成長し、ムーアは昨季と今季、マレーシアのCIMBクラシックを連覇して通算4勝の強者になった。
だが、そんな順風満帆な人生に至るさらに以前に、ムーアは数々の山と谷を経験してきた。名門ネバダ・ラスベガスの大学時代はタイガー・ウッズの記録を凌ぐ大型新人と目されながら米ツアー選手になった。数々の企業から億単位の大型契約のオファーを受けたのは当然の流れ。だが、彼はオファーのすべてを拒否し、あえて契約ゼロの無印選手になった。
「企業のロゴを付けて、メーカーの希望や宣伝を詰め込んだバッグを携えてプレーするのは、あのころは、どうしても嫌だった」。
クラブもウエアも自分が好きなものだけの寄せ集め。ハンチング風の帽子を被ったり、ネクタイを締めたり。そんなふうに我がスタイルに固執したところまでは良かったが、肝心の成績は下降し、そこに左手首の故障が加わり、ムーアが打ち出す個性的な施策には悲哀ばかりが漂った。
そんな中、ムーアはカスタムメイドでクラブを作る会社の共同経営者に名を連ね、まずは同社のクラブを握り始めた。翌年からはアダムスゴルフと契約。ウエアなど他の契約も徐々に結び始め、あんなに突っ張っていた彼は平凡化していった。
だが、外見は平凡になった代わりに、彼は実業家の父親や家族と協力しながら大勢の人々に庶民的な料金でゴルフを楽しんでもらうためのゴルフ事業に乗り出した。
「幼いころ、父が言ったんだ。ゴルフのゴールはカップにボールを沈めることだぞってね」
それが、ムーアのゴルフの哲学になった。
今大会の最終日、ムーアは14番でジョーダン・スピースに並ばれ、その直後にパトリック・リードやショーン・オヘアにも追い付かれ、しかしムーアだけはボギーを叩いて後退し、プレーオフに絡むことができずに敗退となった。…