政治そのほか速
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学校、塾、NPOなど様々な場で子どもたちを教え、支える人たちがいる。
先が見通しにくい時代。その生き方をたどり、語られた言葉を通して、これから求められる教師像を探りたい。
「精神的に弱ると、全てが面白くないって時があるんだよ」
昨年12月中旬、名古屋経済大学高蔵(たかくら)高校(名古屋市)の3年生の教室。戦後の街が舞台の中野重治の小説「おどる男」を取り上げた国語の授業で、主人公の気持ちを想像できない生徒たちに、酒井弘樹教諭(43)が語りかけた。「先生もプロ野球をクビになった時、そうだった」
1993年、ドラフト1位で近鉄(現オリックス・バファローズ)に入団。背番号「18」をつけた。約150キロの速球を武器に、中継ぎとして60試合に登板した年もあった。しかし、肘の手術後、球速が戻らず、移籍先の阪神で自由契約に。2002年、31歳で引退した。
長男も野球をしていたが、自宅のテレビで試合が映るとチャンネルを変えさせた。「一緒に試合を見に行こうか」と言えたのは4年後、同校に就職が決まってからだった。
「自分に充実感がないと、余裕を持って周囲に接することができない。駅の注意書きにも腹を立てる小説の主人公の気持ちがわかるよ」
実人生を例にした授業に、生徒たちが聞き入った。男子生徒(18)は「国語だけでなく、人生についても学べる」と話した。
引退後、すんなりと教師になったわけではない。
知人の紹介でOA機器会社に就職。営業の仕事をしたが、うまくいかず、ストレスで帯状疱疹(ほうしん)に。「野球を生かした仕事をしたい」と高校野球の指導者になることを考えたが、当時は日本学生野球協会の規則で2年以上の教員経験が必要だった。
「思い切って仕事を辞めて、先生に向けて挑戦してもいいんじゃないの」
妻の敏江さん(49)に背中を押され、1年で退職。国学院大生だった時に教職課程の一部の単位を取得した国語の教師を目指し、アルバイトをしながら同大で2年かけて教員免許を取得した。野球が強い私立高校を希望したが、断られ続け、将来の野球部設置を検討中だった高蔵高校にようやく決まった。
生徒約1300人、教師約70人の大規模校。35歳の新人教師は「毎日が緊張の連続だった」。自信がなく、国語の教師に頼み、生徒と机を並べた。自分の授業の合間に1年間、生徒のようにノートを取り、声の掛け方や板書の方法などを身につけた。
教師になって2年後、野球同好会を作った。集まった9人の多くは野球の経験がなかった。練習場所もなく、ボールが当たると危ないので、駐車場で古いバドミントンのシャトルを打った。バットの振り方から教え、当たると一緒に喜んだ。
翌年野球部になり、今では部員は1、2年生だけで50人いる。昨秋の県大会ではベスト16に入った。いつかは甲子園に出場して日本一になりたいが、勝利だけが目標ではない。あいさつや礼儀も大切にするよう、強調している。
プロ野球選手時代を振り返ると、生意気な性格で、コーチらによく、口答えした。謙虚でなかったから、引退後苦労した。人生をやり直すことができたのは、支えてくれた人たちのおかげだと、今はわかる。
「子どもたちには、失敗を恐れず挑戦し、もし挫折したら、原因を考えてプラスに変えていってほしい。そのために、私の失敗した経験を伝えたい」
これからも、教室やグラウンドで、自らの生きざまを話していくつもりだ。
教師像の変遷について、教育評論家の尾木直樹さん(68)=写真=に聞いた。
僕が私立高校の教師になった1972年当時、教師は尊敬の的でした。
大学進学率は、まだ2割程度。学歴社会が形成される真っ最中で、生徒を高校、大学の受験競争に勝ち抜かせるのが、教師の役割だったんです。漢字が書けなければ、何十回でも練習して頭にたたき込め、といった風潮がありました。
ただ、レールに乗れない子はいます。80年代には校内暴力の嵐が吹き荒れました。その頃、反響を呼んだのが「金八先生」です。時には生徒を抱きしめ、一緒に泣く。非行の生徒にもひるまない。僕が勤めていた東京都内の公立中学校でも、そんな教師が生徒に信頼されました。僕も深夜まで「ツッパリ」の生徒と向き合い、ラーメンをすすりながら話を聞いたものです。
その後、いじめや不登校が増え、バブル経済崩壊後は、学級崩壊、モンスターペアレントなど「熱血」だけでは手に負えない問題が噴き出します。大学進学者が増えて高学歴の保護者が珍しくなくなり、教師の地位は落ちました。
「GTO」は元暴走族、「ごくせん」は任侠(にんきょう)集団の跡取り娘が教師として登場しました。複雑な問題を一挙に解決してくれる「スーパー教師」への待望の表れだったかもしれません。
グローバル化とIT化が進み、子どもたちは容易に様々な情報を入手できます。教師に求められるのは、知識を教え込むのではなく、子どもの特性を見抜き、自分の経験や人脈を生かしながら学びをサポートすることです。自ら学びへの情熱と好奇心を持ち、モデルを示してほしい。
教師と子どもの関係は時代によって変わってきましたが、教育で一番大事なのは両者がきちんと向き合い、信頼し合うこと。これだけは不変です。