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堺・茶の湯体験 利休の心と対峙

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堺・茶の湯体験 利休の心と対峙

堺・茶の湯体験 利休の心と対峙 「頂戴します」「お先に失礼します」。堺市中区の市立東百舌鳥小近くにある地域会館。床の間のある和室で、同小6年の児童39人が緊張した面持ちでお点前を披露しあった。

  堺市教育委員会が全市立136小中学校で取り入れる茶の湯体験。堺が生んだ茶人・千利休が生涯をかけて取り組んだ「茶の心」に触れてもらおうと、2006年から始めた。

  利休は1522年、堺の豪商の長男として誕生。17歳から茶の湯を学び、後に武野紹鴎に師事して、簡素静寂を重んじた「佗(わび)茶」を大成した。

  同小6年の花市彩歌さん(12)は「お点前を披露してお茶を飲んでもらう間、『おいしいだろうか』などと相手の気持ちを考えていた。逆に出されたお茶を飲む際は、心を見られているような気がした」と、初めて体験する佗茶の世界に声を弾ませた。

 

  • 千利休の肖像画(堺市博物館提供)
  •   ◇茶室で政治介入

      茶をたしなむ習慣は、平安時代の遣唐使によってもたらされた。当時は薬として用いられていたが、室町時代には武士の階級で闘茶が流行。「本茶」と「非茶」を飲み当てる遊びだが、次第に賭け事として広まり、やがて文化として花開く。

      戦国時代には、武将たちがこぞって茶の湯をたしなみ、高級な茶道具を所有することがステータスとなった。

      織田信長に重用された後、豊臣秀吉の茶頭として仕え、1500人以上が参加した北野の大茶会を仕切るなど、権勢をふるった利休。茶道具の目利きの発言力は絶大で、時には政治にも介入した。どのようにして茶の湯で政治を動かしたのか。

      2013年12月に公開された利休の美の源泉に迫る映画「利休にたずねよ」では、利休がつくった茶室で唯一現存する国宝「待庵」が登場するシーンがある。2畳ほどの狭い空間で、亭主と客が対峙(たいじ)する。緊張感の中で心と心をぶつけ合い、コミュニケーションを生んでいった。

      国際日本文化研究センターの村井康彦名誉教授(84)(日本文化史)は「狭いにじり口から武士は刀を外して茶室に入る。身分の上下は存在せず、気持ちを通わせていく濃密な空間がある」と指摘する。

      利休のもてなしの心を表現した逸話がある。

      京都にあった利休邸の庭では、夏にアサガオが咲き誇った。それを聞きつけた秀吉が茶会を申し入れ、利休の屋敷を訪れたが、庭には一つも咲いていない。驚いて茶室に入ると、床の間に見事な一輪のアサガオが生けてあった。利休はこの一輪を際立たせるため、ほかの花をすべて摘み取らせたという。

      茶の湯で心を通わせ、特別な存在となった秀吉と利休。だが、利休の名声が高まるにつれて2人の溝は深くなる。1591年、秀吉に切腹を命じられ、利休は70歳の生涯を終えるが、佗茶の精神は三千家によって現代に受け継がれる。

     

    • 堺環濠都市遺跡から見つかった大量の茶道具の一部(堺市博物館提供)

        ◇顕彰の動き 次々

        1615年の大坂夏の陣で、2万戸が焦土と化した堺。堺市北西部に位置する堺環濠(かんごう)都市遺跡(南北3キロ、東西1キロ)の地下1~3メートルには、真っ赤な焼土から大量の茶道具が出土している。同市博物館の続伸一郎学芸係長(56)は「茶の湯の文化が、それだけ庶民にも浸透していた証拠だ」と話す。

        夏の陣から400年を迎える2015年は、堺市にとっても特別な年だ。

        旧市立堺病院跡地(堺区)では、利休の茶の湯、与謝野晶子をテーマにした文化観光拠点施設「さかい利晶の杜(もり)」が3月20日の開館に向け、急ピッチで建設が進む。鉄筋3階建て延べ3500平方メートルで総事業費は36億円。1階には「待庵」を再現し、佗茶の世界観を体験できる。

        東側に道を隔てて、利休の屋敷跡と伝わる地がある。広さ約2000平方メートル。利休が茶の湯にも使ったとされる「椿の井」があり、今も水が湧き出る。所有する茶道裏千家淡交会総本部によると、木造の外塀を整備し、利晶の杜の開館に合わせて敷地内を一般公開する予定だ。

        利休を顕彰する動きの広がりに、村井名誉教授は「今のとげとげしい時代だからこそ、利休を体現した茶の湯の観念が求められている」と語る。

        世俗から離れ、身分の上下もない濃密な空間と時間。相手を敬い、一期一会を大切にする文化は現代人の心にも響く。

       (山崎茂)

       

        ◇「山里丸」に草庵

        秀吉が大坂城を築いた際、天守北側に「山里丸(やまざとまる)」と呼ばれる区画を設け、茶室を建てた。利休の佗(わび)茶の思想である「市中の山居」に基づいた草庵。設計図は現存していないが、茶会記などの資料や国宝・待庵を参考に、埼玉県入間市博物館がこの茶室を1994年に復元、常設展示している。復元茶室の内部は二畳敷隅炉に床の間を設けた。「室床」という土壁を塗り回して柱を見せず、奥行きを感じさせる意匠になっている。

        天正12年(1584年)1月3日、秀吉が利休と津田宗及の2人の茶頭と一緒に茶室開きをした。秀吉は来客の接待、時には密談の場として利用し、佗茶の世界を堪能したが、大坂夏の陣で焼失した。山里丸は、夏の陣で秀吉の子・秀頼とその母・淀君が自刃した場所とも伝わる。

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