政治そのほか速
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大相撲春場所(大阪府立体育会館)4日目の11日、西前頭5枚目の遠藤(穴水町出身、追手風部屋)は、西前頭3枚目の碧山を押し出しで破り、3勝1敗とした。
遠藤は立ち合いでいなすと、相手の勢いを利用して、そのまま押し出した。5日目の12日は、東前頭8枚目の松鳳山(今場所0勝4敗)と対戦する。
東十両2枚目の輝(七尾市出身、高田川部屋)は、東十両4枚目の青狼に外掛けで敗れ、1勝3敗となった。
◇福島へ 父は戻った
東日本大震災の発生から4年を迎えた11日、県内各地で犠牲者を悼む催しがあり、人々が静かに手を合わせた。また、被災地には薬師寺(奈良市)から僧侶らが出向き、被災者らと共に復興を祈願した。県内の避難者は68世帯161人(1日現在)に上り、今も公営住宅や親族・知人宅などで家族と離ればなれになりながら、安定した生活を取り戻そうと願っている。
11日午後、東大寺で行われた法要に、福島県富岡町から河合町に避難した平山裕美さん(48)と子ども3人が参列した。「4年たってもいっこうに復興が進んでいる感じがしない」。福島で暮らす夫美弘(よしひろ)さん(51)の姿はなかった。
河合町で育った裕美さんは、25歳で美弘さんの実家がある富岡町に嫁いだ。最初はお年寄りの方言が分からず悩んだが、冬でも比較的穏やかな気候や、のんびりした人々が好きになった。「ついの住み家になるんだろうな」と思っていた。
2011年3月、全てが変わった。
福島第一原発事故で全町避難を余儀なくされ、一家5人で河合町に移った。翌月、通っていたいわき市の高校が再開したのを機に、長女小夏さん(21)と長男太一朗さん(20)は、美弘さんと同市に戻った。家族はバラバラになったが、裕美さんは「これがベスト。そう思わないと進んでいけない」と気持ちを押し殺した。
河合町の実家近くで、次男詠二朗さん(18)と2人暮らしを始めた。詠二朗さんは県立奈良高で柔道に打ち込み、今春卒業した。
小夏さんと太一朗さんは、相次いで関西の大学に進学。河合町での暮らしは、少しにぎやかになった。それでも、夕方に薄緑色の作業着姿で「ただいま」と帰ってくるはずの美弘さんはいない。寂しさが募る。
4年たっても先の見えない生活が続く中、裕美さんは、富岡町で暮らしていた頃の夢をよく見る。5人が居間で楽しそうに朝食をとったり、子どもたちが自転車で登校するのを見送ったり――。「震災前に戻れるなら戻りたい」と、つぶやくように語った。
◇
裕美さんらが法要に参列していた頃、富岡町の自動車整備工場「平山自動車工業」で、美弘さんは一人黙とうしていた。
周辺は、立ち入りは許されたが、まだ住めない「居住制限区域」。近くにある自宅で暮らすことは出来ない。
2人の子どもが河合町に戻った後も、いわき市内の借り上げ住宅で一人暮らしを続け、昨年5月、念願の工場再開を果たした。父から受け継いだ工場。古くからの従業員6人は解雇していなかった。
水道が復旧しておらず、井戸を掘った。売り上げは震災前の3分の1程度で、従業員の給料を払えばほとんど手元には残らないが、「復興に携わる人たちを助けることで、私も生まれ育った町の再建に手を貸せる。いま出来るのは、この仕事だけだから」と言う。
震災前、約1万6000人いた住民の姿はほとんどなく、客は原発や除染、建設に携わる作業員らが中心。居住制限が解除されても住民が戻ってくるとは限らないが、「私たちのように町で活動する姿があれば、避難生活を送る人たちの希望になる。『戻ろうかな』と思う人も現れる」と思う。
裕美さんや子どもたちに会えるのは3、4か月に一度。子どもたちと一緒に暮らせる日が来るのか分からない。でも、昨年12月に除染を終えた自宅にはたびたび立ち寄り、空気を入れ替える。「子どもたちに、自分たちが育った場所は残してやりたい」と思うから。
(坂木二郎)
東日本大震災の被災地や被災者を支援する団体による合同追悼式が11日、名古屋市中区の久屋大通公園もちの木広場で行われた。地震が発生した午後2時46分、参加者全員が黙とうし、実行委員長の石井弘子・東海岩手県人会会長(57)が「これからも被災者と被災地に心を寄せていきます」と宣言を読み上げた。
会場では1万本以上のキャンドルに明かりがともされ、「追悼 3・11 東日本」の文字が浮かび上がった。参加者は献花台に白のカーネーションを供えるなどして犠牲者を悼んだ。
福島県相馬市から子ども4人と避難している愛知県豊橋市、介護士堀内光子さん(56)は「津波で亡くなった近所の友人らの姿を今でも毎日思い出す。犠牲者の皆さんを忘れることはありませんとの思いを込めて手を合わせた」と話した。
東日本大震災から4年を迎えた11日、県内でも犠牲者の冥福を祈る式典や、将来の地震に備えた住民の避難訓練などが行われた。
県庁講堂では、県主催の「東日本大震災4周年追悼式」が行われ、県職員ら約300人のほか、宮城県石巻市から伊勢市に避難してきている阿部千香子さん(60)、克信さん(16)親子が参列した。
阿部さんは津波で自宅を失い、震災直後から、夫が勤める海運会社の本社がある伊勢市で避難生活を送る。縁もゆかりもない土地だったが、周囲の支えで次第に元気に過ごせるようになったという。
会場では、東京・国立劇場で行われた政府主催の追悼式に合わせ、地震が発生した午後2時46分から1分間、出席者全員が黙とう。その後、阿部さん親子や鈴木英敬知事らが献花した。
鈴木知事は、県内には今も465人が避難していることに触れ、「復興はまだ道半ばで、被災者は平穏な日々を取り戻していない。被災者と交流し、復興を応援し、共に歩んでいく行動が必要だ」とあいさつした。
◇ロウソク200本 黙とう 尾鷲◇
尾鷲市北浦町にある町づくりの活動拠点「キタガワノホトリ」では、追悼イベント「忘れていないよ」が開かれた。
震災直後から、岩手県山田町にスタッフを派遣するなど、被災地支援を行っているまちづくり団体「東紀州コミュニティデザイン」が初めて企画。チャリティーコンサートや被災地で撮影された写真の展示などが行われた。夜はロウソク約200本がともされ、集まった人たちが黙とうをささげた=写真=。
災害ボランティアとして、宮城県石巻市や気仙沼市でがれきの撤去作業などをした経験のある同団体の横田直也さん(24)は「東北ではまだ復興していない所もある。このイベントが被災地の人たちに思いをはせるきっかけになれば」と話していた。
東日本大震災から丸4年を迎えた11日、坂井市三国町崎の休暇村越前三国で、地震と津波で大きな被害を受けた岩手県宮古市のイクラを使ったしょうゆ漬けが宿泊客に提供された。
全国37休暇村が行っている産業支援活動の一環。休暇村職員による募金とグッズ販売の売り上げの一部の計83万円で生産者から食材を購入し、各休暇村でメニューを考えた。
越前三国ではこの日、宿泊した約50人の夕食のテーブルに「本日で丸4年がたちました」などと記した案内文を添え、スタッフが「宮古市のイクラです」と紹介しながら配膳した。家族4人で泊まった京都市山科区の無職森学さん(77)は「粒が大きくて口の中でぷちぷちとはじける。食べることも支援につながるんですね」と話していた。
12日の朝食には、宮城県気仙沼市産の食材で作ったワカメご飯とめかぶとろろがふるまわれる。