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「復興の力に」転身決意

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「復興の力に」転身決意

「復興の力に」転身決意 

松山(まつやま)良一(りょういち) 65 独立行政法人・日本政府観光局理事長

 

 <商社マンに>

  •   東京大学に入った1968年は学園紛争のさなかです。

      1年生の夏には授業がなくなり、叔父の機械リース会社を手伝っていました。お金の管理も任されました。設備を買うためには担保だけでなく、個人保証も求められます。商売の厳しさを身をもって知りました。

      海外に行きたくて商社を志望しました。就職活動で出遅れたのですが、三井物産に拾ってもらいました。

      当時は高度成長期のまっただ中。流行語だった「モーレツ」との表現通りの職場でした。配属先は自動車部門。トヨタ車をカナダで売る仕事を経て、4年後には英国に赴任しました。最初はヤマハ発動機の船外機を、次いで二輪車の販売担当になりました。

      英国で勤務していた80年、ヤマハとホンダが日本で繰り広げていた二輪車の販売競争が英国にも波及してきました。在庫を大量に抱えた系列販売会社が赤字に転落し、資金繰りや従業員への給与支払いもままならない状態です。30歳でしたが、事情が分かっている君がやれ、と再建を命じられました。

      「従業員を減らせ」「なぜ計画通りにいかないのか」。本社の幹部がやってきてはリストラを命じる。社員には「明日から来なくていい」と言い渡すつらい仕事が続きました。

      世話になった、うまくいくことを願っている。解雇通知したこちらを励ましながら職場を去って行った同僚もいました。日頃の信頼関係ほど大切なものはない、と思い知りました。帰国したのは約3年かけて販社の再建を終えた後です。

     <大使を経て観光振興の旗振り役に>

      大使の話があるが、どうか。九州支社長だった当時に、社長から電話があり、外務省に転身しないかと誘われました。赴任地はアフリカのボツワナ。初代の大使として2008年に赴任しました。未知の国でしたが、民間人を登用して資源外交を進めたいとの政府の意向でした。日本のために働きたい、との気持ちから引き受けました。

      当時は日本企業の進出はゼロ。石炭やガスなどの天然資源は豊富にあるのですが、「紛争」のイメージが強いアフリカ進出に企業は及び腰でした。商社時代の人脈をたどって投資を呼び掛けました。「企業のため」から「日本のため」。アフリカ赴任は、働くことの新たな意味を見つけた転機になったと思います。

      日本政府観光局の理事長に就任したのは11年秋です。政府から打診がありました。東日本大震災の後、ボツワナ赴任中のことです。海外でも被災地の映像は繰り返し流れていました。お受けしたのは、観光振興で復興に役立てるなら、との思いからです。

      日本への不安が高まっていたころです。理事長就任後は、外国人観光客の声をネット上で繰り返し発信しました。13年に訪日外国人が初めて1000万人を超えましたが、日本の観光産業はまだまだ発展途上です。「いつか行きたい国」から「今行くべき国」に変えることが課題です。(聞き手 大郷秀爾)

     

      《メモ》 前身の国際観光振興会の設立は1964年。正式名称は国際観光振興機構で、日本政府観光局(JNTO)は通称。欧米やアジアなど海外14か所に事務所を置き、外国人旅行客の来日を促進するための活動を展開する。役員を除く常勤職員は93人(2014年4月時点)。13年に来日した外国人(1036万人)の1割を占める東南アジアでの活動を強化するため、3月にジャカルタ事務所を開設した。

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