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[写真]啓蟄の大阪城梅林。見ごろを迎えたが、まだつぼみも多く来週までは楽しめそう=6日午前11時40分ごろ、大阪市中央区で
6日は冬ごもりしていた虫たちが動きだすころとされる、二十四節気のひとつ「啓蟄(けいちつ)」。近畿地方は青空が広がっているものの、大阪管区気象台によると、大阪市内では同日正午現在で最高気温は10度。少し寒さを感じるが、大阪市中央区の大阪城梅林ではウメが見ごろを迎えており、春の光景を見ようと多くの市民でにぎわっている。関西テレビ「スーパーニュース アンカー」でおなじみ、気象解説者の片平敦さん(ウェザーマップ)は「今月は冬と春のせめぎ合い。寒暖さ激しいため体調管理に気をつけて」と話している。
広さは1.7ヘクタールに約1270本のウメ
[写真]紅白のウメが咲き誇り、多くの人の目を楽しませている=6日午前11時40分ごろ、大阪市中央区で
同梅林の広さは1.7ヘクタールで約1270本、紅白のウメがみられる。1974年の開園以来、多くの市民や観光客らが訪れる名所として知られている。「今年はちょっと咲くのが遅めでした」と語るのは同梅林関係者。「気温の状況などによって変化するかもですが、来週くらいまでは見ごろと思います」と笑顔で語る。
まだ、つぼみのものも多く、大きなカメラを持ったカメラマンも多く訪れ、青空と大阪城をバックに咲くウメのベストショットを撮っている。城とウメを撮っていた女性は「なかなかええ場所が見つからん。けど、探すのがおもしろい」と苦笑する。
大阪市淀川区から来たという女性(48)は「寒いけど、ネットでいい感じと見て来た。全体的には楽しめそうやけど、きょうはこうして晴れてるんで来てよかった」と話す。
同市中央区から来たという女性(28)は「子どもと一緒に来ました。まだ生まれたばかりであまり遠出はできないけど、近くにこういうオアシスがあってうれしいですね。香りもいいから子どもも喜んでくれてると思います。来週もきます」などと話していた。
片平敦さん「出てきた虫もこの寒さ『無視』できない」
寒い啓蟄となった6日だが、気象解説者の片平敦さんは「6日は朝が冷え込み霜が降りたところもありました」と話す。「日中は日が差し、さすがに日が当たれば3月なので暖かく感じますが、日陰などは寒いです」と続けた。
また「土日は晴れて気温も高くなりますが、月曜日は雨の予報。この雨によって真冬の寒さに戻る予報です。再来週には暖かさが戻るなど今月は『冬と春のせめぎ合い』。きょう出てきた虫も『無視』できない寒さですね」などと得意のダジャレを交えて話していた。
地図URL:http://map.yahoo.co.jp/maps?lat=34.6869639371739&lon=135.52843002065498&z=15
本記事は「THE PAGE」から提供を受けております。
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東日本大震災関連の証言映像とニュース映像1000本以上が収録されているNHKのウェブサイト「東日本大震災アーカイブス」が新たな役割を担おうとしている。震災被害の風化を防ぎ、震災の教訓を自分のものとするためには、何ができるのか? 震災4年目に向けた課題を聞いた。
[写真]震災4年目を迎え、NHKがリニューアルした「東日本大震災アーカイブス」
NHKは、2012年1月7日に放映が始まった5分のミニ番組「あの日わたしは」で収録した映像を「東日本大震災アーカイブス」で公開してきた。「あの時、何が起こり、人々はどう行動したのか」を知ってもらおうと、さまざまな場面で被災した人たちの証言を集めた映像500本と首都圏や地方の放送局が取材したニュース映像800本を収蔵。教室での利用など、利用者が目的に応じて映像を探せるようになっている。
膨大な資料を収蔵する一方で、「防災に関心がある人のなかでも、震災の記憶が薄くなってきています」と話すのは、同サイトの責任者を務める倉又俊夫チーフプロデューサーだ。NHKは2014年冬、サイトの利用意向についてグループインタビューを行った。そのなかで感じた印象なのだという。
グループインタビューに応じた利用者は「どこから見始めていいか分からない」「備蓄に必要な量はどれくらいか」といった実利、実用の目線から情報を求めていた。倉又プロデューサーによると、アーカイブスのニーズは、次の3つの時間軸に分類できるという。
・その日どうだったのかを知りたい
・どう変わったのかを知りたい
・今どうなっているのかを知りたい
震災被害の生々しさに人々の関心が集まり、そうした映像が必要とされる時期から、時を経て、その震災が今の自分たちにどう役に立てられるのかという教訓を活かす時期に変わってきたというわけだ。
「一言で『被災者』と言っても、仮設住宅から出られる人、出られない人などがいて、それぞれの問題が拡散しています。また『震災の被害が大変だったんですよ』という証言映像だけでは伝わらなくなっています。これが4年目の難しさです」と倉又プロデューサーは話す。
アーカイブスというサービスは、いつでも利用者が自分が必要とする映像証言を引き出せるようにはなってはいるが、逆に言うと、利用者に明確な目的がなければ適切な映像を引き出すことができない。そしてまた、毎日、毎週、見に訪れる類のコンテンツでもない。「しばらく間を空けてから見てみたい」というのが利用者の意見だった。
アーカイブスの年間アクセスで圧倒的に多いのがやはり3月。そのため、この時に必要とされている証言をタイムリーに提供しようと、震災4年を前にリニューアルすることを決めた。3・11に自然とアクセスが集まるとしても、明確な目的を持たない利用者にどう証言映像を伝えればよいのか? キーワードは「まとめ」だ。
震災の翌年に始まったこのサービスは、「映像の見方は見る人が決める」という方針で始まった。それ以来、NHKが個別の証言に意味を持たせるような演出は避けてきた。しかし、利用者に映像を利用してもらうためには、ただ並べておくだけでなく、アーカイブ映像に「意味」を持たせて、“おすすめ”をすることが必要なのではないかという結論に至った。
数ある映像のなかから、どの映像が最も印象的で、いまこのタイミングで伝える価値があり、見てもらうべきか。これは、いわゆる「キュレーション」だ。キュレーションというのは、ただのピックアップやランキングを見せることは違う。NHKがどの証言映像が重要なのかという価値判断をし、なぜ重要なのかという意義付けをして紹介する。これまでの方針を転換する大きな決断だった。
印象に残る証言をメンバー全員で出し、まとめのテーマを決めた。「救えなかった命」というテーマでは「あの時こうしていれば……」という回顧と反省を軸に映像を組み立てた。このほか初動に役割を果たした「消防団員の活躍」や「津波にのみこまれて」「避難所での生活」など11のテーマで表現する。
震災映像だけでなく、被害から復興に向かう映像もまとめた。こちらは「三陸鉄道」「奇跡の一本松と高田松原」「原発事故後のくらし」など8テーマ。倉又プロデューサーは「たとえば『三陸鉄道』というテーマを立てることで、点である個々のニュースを時系列に並べることで線や面に見えてくる」と立体的に構成していくことに意欲を見せる。
「これまで証言映像の本数を求めてきましたが、それではいけないということが分かりました。アーカイブスは見てもらうことがゴールではありません。これを活用してもらってはじめてアーカイブスが生きてきます」と話している。
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私はどちらかというと心配性なので、何ごとも準備を入念にしないと、実行できないタイプである。
というか、正確にいうと、そういうタイプであった。
切羽詰れば、何とかなる
ところが、最近は以前よりも少し”ええ加減”になってきたのだろうか。たいていのことはそこまで準備を入念にしなくても、切羽詰れば、何とかなることがわかってきた。
すると、どういうことが起こるか。例えば、これまでは何らかの発表やプレゼンテーションの際には、事前に人が驚くような時間をかけて調べ物をしたり、資料を作りこんだりしていた。しかし、最近はあえて本番直前までこうした作業を行わなくなった。
最も、最後まで何も行わないままだと仕事にならない。
もうこれは、最後の、最後の締め切りギリギリのタイミングになり、自分でも追い込まれてきたな~とわかるほどになると、集中して一気に用事を済ませてしまう。
傍から見ていると、何でわざわざギリギリになるまで手をつけないのだろうと不思議に思われるかもしれない。長いこと、ずいぶんと時間をかけた作業を行っていると、自分が本当に集中した時に、だいたいどの程度の最大限瞬発力を発揮できるのかが経験的に分かってくる。
だから、日ごろ余裕を持って仕事を終えている時は、本当はまだまだ余裕があるのだ。余裕があるうちに終えてしまうと、次の仕事を前倒して初めてしまう。そして次の仕事も余裕をもって前倒して完了してしまう。「早く完了する」という意味ではそれに越したことはないが、いつまでも「切羽詰らなく」なるのである。
ところが、切羽詰ったからこそ、結果的に良いできになることもよくある。そういうことが実際にあるからこそ「甘いささやき」に乗ってしまうのだ。余裕をもって完成させた仕事よりも、切羽詰ってその場で考えて、土壇場の集中力で達成した仕事の方が、結果的に「切れ味」が良いことがある。
こうして、最近では時間の「ある・なし」に関わらず、何にもしない待ちの時間を、あえて設けたりする。その間、何かまったく別のことに没頭する。
そういえば、戦国時代のどこかの武将が、合戦の際、本来ならば攻め込んでくる敵の部隊を極限まで引き寄せた上で、鉄砲隊が正面から一斉発砲する手はずのところ、自軍の数名の兵士が焦って早く発砲を開始したせいで、戦力が分散して勝利のタイミングを逸し、大混乱に陥ったという話を聞いたことがある。
もっとも、今は戦国時代ではない。私は戦国武将でも鉄砲隊でもない。なぜこんなギリギリの綱渡り戦法をするのか、少し言い訳っぽくもある。あまり人にお勧めはしない。
<著者プロフィール>
片岡英彦
1970年9月6日 東京生まれ神奈川育ち。京都大学卒業後、日本テレビ入社。報道記者、宣伝プロデューサーを経て、2001年アップルコンピュータ株式会社のコミュニケーションマネージャーに。後に、MTVジャパン広報部長、日本マクドナルドマーケティングPR部長、株式会社ミクシィのエグゼクティブプロデューサーを経て、2011年「片岡英彦事務所」を設立。(現 株式会社東京片岡英彦事務所 代表取締役)主に企業の戦略PR、マーケティング支援の他「日本を明るくする」プロジェクトに参加。2011年から国際NGO「世界の医療団」の広報責任者を務める。2013年、一般社団法人日本アドボカシー協会を設立代表理事就任。
サンタ姿のナナちゃん(1983年撮影)
愛知県名古屋市中村区の名古屋駅の待ち合わせスポットとして。また、観光スポットとして定番の巨大マネキン人形「ナナちゃん」。名鉄百貨店前の歩道に設置され、初めて訪れた人は圧倒的な存在感とファッションセンスに度肝を抜かれることも多いだろう。そのファッションが常に話題となるナナちゃん。しかし、なぜ、ナナちゃんはここに存在し、これだけの名物になったのか。その生い立ちを探ってみた。
きっかけは、東京で見た「巨大マネキン」
[写真]ナナちゃん、アゴがはずれて地面を突き破ったことも
ナナちゃんのプロフィールは、1973年(昭和48年)4月28日生まれの41歳。身長約6メートル、体重約600キロ。公式サイトでは3サイズまで公表している。本業は名鉄百貨店の「広報部員」で、日々の業務を担っており、彼女にしか着こなせない最新ファッションを常に提案している。
次に生い立ちをひも解いてみると、1972年に名鉄百貨店が若者を対象とした新館「名鉄百貨店セブン館(現・ヤング館)」をオープン。その1周年を記念した“百貨店らしいシンボル”として、当時の担当者が東京のマネキン展示会で見つけたのが、インパクトのある「巨大マネキン」だった。ちなみに当時のセブン館にちなんだ『ナナちゃん』という名前は、この時期に一般公募で決定したという。
歩道に巨大マネキンを設置したことで「当時のお客様からはとにかく驚きの声が多かったと聞いています」と教えてくれたのは、名鉄百貨店広報宣伝担当の石田さん。「待ち合わせ場所にこの巨大オブジェを見て、『駅前の仏像の前で待ってるね』や、『銅像の前で集合』」という声をよく耳にしたそうだ。
設置当初は様々なファッションに身を包むことはなかったそうで、「ナナちゃんの一番最初の衣裳はエプロンでした。当時の名鉄百貨店セブン館では、夏と冬のクリアランスセールを『せぶんまつり』と呼んでおり、店員は全員、このセールの名前が入ったエプロンを着用して接客していました。このPRのため、ナナちゃんに同じものを着せようという発案で、年2回着用していました」と石田さんは続ける。
数年前から衣装替え頻度急増、出張経験もアリ
2015年2月からはセーラー服姿に。愛知啓成高校 生活文化科3年生の生徒により、卒業記念作品として作られた
2006年には一帯のエントランスをリニューアル工事したため、ナナちゃんは一時的に休暇を取ることに。ちなみに翌年には、名古屋の繁華街・栄にある愛知芸術文化センターへ「おでかけ」したこともある。
数年前からは衣装替えの頻度も急増し、昨年は1年間で27回も新衣装をお披露目。「安さに驚いてアゴが外れてしまったり、日頃の感謝を込めてお辞儀をするなど、ナナちゃん自体に動きがあるときは大きな反響があります。また、アニメのキャラクターに扮したときも好評をいただきますね」とは前述の石田さん。
最近ではSNSの普及などにより、全国的にもその存在が広く知られるようになったナナちゃん。名古屋を訪れたら必ず出会っておきたい「女性」といえるだろう。
2015年2月からはセーラー服姿となったナナちゃん。これは愛知啓成高校・生活文化科3年生の生徒が卒業記念作品として作ったものだという。ナナちゃんは、百貨店の広報部員だけでなく、自ら地元の学生たちの“思い出の記念碑”も買って出ているようだ。
観光スポットだけでなく、地元にも愛されるナナちゃんは、きょうも広場周辺を歩く人たちをなごませている。
地図URL:http://map.yahoo.co.jp/maps?lat=35.1681244&lon=136.88490280000002&z=20
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[写真]1900年頃の働くアイヌの家族(提供:MeijiShowa.com/アフロ)
2014年の8月、札幌市議の金子快之議員が「アイヌ民族なんて、いまはもういない」とツイッターに書き込み、物議をかもした。政府の内閣官房アイヌ総合政策室は昨年、アイヌ民族に対する国民の理解度について調査する方針を示したが、アイヌに対する国民の理解度は、けっして高いとは言えないとの指摘もある。そもそも、アイヌとは何なのか。歴史や文化はどんなものなのか。アイヌの歴史に詳しい、北海道大学大学院の谷本晃久准教授に寄稿してもらった。
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アイヌ:ainuとは、アイヌ語で「人間」あるいは「男性」を指す言葉である。同時に、民族名称としても用いられる。政府には現在、内閣官房長官を座長とするアイヌ政策推進会議があり、その事務局として内閣官房にアイヌ総合政策室が置かれている。2008年6月6日に、衆参両院で「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が全会一致で採択されたことは記憶に新しい。
北海道が2006年に実施した統計によると、北海道在住のアイヌ人口は約23700人、東京都が実施した1998年の統計によると、都内在住のアイヌ人口は約2700人とされている。アイヌとしていまを生きる人々は、確実に存在している。
アイヌの歴史と文化
それでは、アイヌの人々の存在を、歴史的に考えてみよう。その舞台は、アイヌ語地名がみられる範囲である。北海道の都市名である札幌や稚内はもとより、国後・シュムシュといった千島列島の島名や、ポロナイスクなどサハリン南部の地名もアイヌ語だ。のみならず、地鶏で有名な比内(秋田県)など北東北の各地にもアイヌ語地名はみられ、それは『日本書紀』や『続日本紀』といった古代日本の歴史書にも記録されている。
アイヌ語を話す人々の歴史は、こうした地域に、時代に応じて変化しつつ古くから展開してきた。日本と刀を交えた15世紀のコシャマインや17世紀のシャクシャインの名は、教科書にも登場するから、ご記憶の方も多いだろう。
江戸時代後期には、アイヌの居住範囲は北海道・千島列島・サハリン南部に及んでいた。このうち北海道のアイヌは南に接する日本との関係が深く、それに加え、千島列島中北部のアイヌはロシアとの、サハリン南部のアイヌは中国(清朝)との関係をもち、中継交易のプレイヤーとしての活動がみられた。
こうした交流の一方で、ユーカラ:yukarに代表されるアイヌ語口承文学の世界や、木彫や刺繍に示される美しいアイヌ紋様の意匠が磨かれるなど、独自の伝統文化が花開いた。交易物資としての毛皮や水産物を生産するための狩猟や漁業の技術にも、研ぎ澄まされた独自性がみられる。
ただしこの時期以降、日本商人の営む大規模漁業に、アイヌが労働力として半強制的に動員されることが恒常化した。それに加え、中華思想を取り入れた日本が、アイヌを「蝦夷人」(=東の野蛮人)と見下し、その文化や言語を蔑んだことも、忘れてはならない。
明治維新以後のアイヌ
明治維新以後、政府は北海道の大部分を「無主地」とみなした。そのうえで、各地に「原野」を設定し、従来あったアイヌの土地利用権を顧慮せず、そこへ本州方面からの入植者を募り、「殖民地」を区画して土地を割り渡した。
当局は、殖民地を区画する際に、「旧土人保護」の名目で、もともとそこで暮らしていたアイヌの居留地を設けることがあった。この居留地を、「旧土人保護地」と称する。「旧土人」とは、アイヌの人々を指した当時の行政用語である。これによりアイヌの人々の多くは、それまでの居住・用益地を追われ、「保護地」へ押し込められることが常態化した。
1899年に公布された「北海道旧土人保護法」(1997年廃止)は、「保護地」をアイヌに農地として給付するとともに、教育・衛生を保障しようとした法律である。しかしアイヌを、人種や民族に優劣をつけて考える社会進化論の考えに基づき劣等視し、教育は日本語で行う一方で、一般児童より簡易なカリキュラムの特別学校を設けた。下付地の売買には、「無知」な「旧土人」がだまされないようにとの名目で、道庁長官の許可を必要とした。当事者にとっての不利益を内包するこうした施策に対し、当時から不満を訴え改善を求めるアイヌの人々の行動が見られたことも、近代アイヌ史の重要な側面である。
このように、明治維新以降、すなわち近代の北海道、ひいては日本の社会には、アイヌの家庭に生まれることが、社会・経済的な不利益を蒙ることを余儀なくされる構造があったということになる。国の政策に起因する不利益ということでいえば、より大きな影響を蒙ったのは、ロシアとの国境地域に暮らした千島列島やサハリンのアイヌの人々である。
樺太・千島交換条約、ポーツマス条約、そして第2次世界大戦敗戦に伴い引き起こされた、日露両国間の度重なる国境の変転が、この地域のアイヌの人々に、居住地の移転を強いた。戦後の「引き揚げ」に伴い旧樺太から移住して来られたサハリン・アイヌの人々の御子孫は、主に北海道で、厳しい環境の下、その文化伝統を将来につなぐ努力を重ねられている。しかし、同じく北方領土・色丹島から移住して来られた千島アイヌの伝統を伝える方は、この地球上に一人もおられない。このことの意味を、私たちは考える必要があるだろう。
このようにアイヌの文化は、和風文化、琉球・沖縄文化とともに、わが国における固有の伝統文化のひとつである。沖縄に国立劇場があり、東京・京都・奈良・大宰府に国立博物館があるように、2020年の東京オリンピック・パラリンピック開催に合わせ北海道白老町に設置予定の「民族共生の象徴となる空間」に、アイヌ文化を対象とした国立博物館が置かれる予定だ。アイヌの人々の蒙ってこられた社会的な不利益の歴史的経緯とともに、その文化伝統の豊かさを自覚的に共有することは、現代日本社会に暮らすものの素養といえるのではないだろうか。
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谷本晃久(たにもと あきひさ)
北海道大学大学院文学研究科准教授。専門は日本近世史・北海道地域史。著書に、『近藤重蔵と近藤富蔵』(山川出版社)、『蝦夷島と北方世界』(共著、吉川弘文館)など。
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