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プレミアリーグで2連敗を喫し、4位に順位を下げているマンチェスター・Cが、今シーズンのある仮想順位で首位を走っていることが明らかとなった。17日付のイギリス紙『デイリー・ミラー』が報じた。
スポーツデータ会社『オプタ』の統計を基にした仮想番付は、「枠内に放ったシュートがすべて決まっていた場合」のゴールへの積極性を示すランキングとなっており、このデータでマンチェスター・Cは2位アーセナルと勝ち点11差で首位に立っている。
現在、実際の順位ではリーグ第31節までを終え、1試合消化数が多い2位アーセナルと勝ち点13差で首位を快走しているチェルシーは、同仮想番付で3位。3位のマンチェスター・Uは仮想番付では6位、日本代表DF吉田麻也が所属するサウサンプトンは同番付で4位につけている。
2連敗でマヌエル・ペジェグリーニ監督の解任論も囁かれ始めたマンチェスター・Cだが、シーズン残り6試合で巻き返しを図れるかが注目される。
楽天の則本が今季初勝利を挙げた。毎回走者を背負う苦しい投球だったが、6回を2失点でしのいだ。松井裕が5セーブ目。打線は六回1死一、二塁から後藤の右前打とサンチェスの犠飛で2点を勝ち越した。日本ハムは今季初の連敗。
トッテナムを率いるマウリシオ・ポチェッティーノ監督は、プロフットボール選手協会(PFA)が選出する年間最優秀選手賞に、今季公式戦43試合で29得点と活躍するチームのエースストライカー、FWハリー・ケインが相応しいと主張した。
ケインはチェルシーのMFエデン・アザール、FWジエゴ・コスタ、アーセナルのFWアレクシス・サンチェス、マンチェスター・ユナイテッドのGKダビド・デ・ヘア、リバプールのMFフィリッペ・コウチーニョと共に、同賞の最終候補にノミネートされている。
17日付のイギリス『スカイ』によれば、ポチェッティーノは首位チェルシーの中心選手であるアザールを引き合いに出し、ケインが有力候補である理由を以下のように説明した。
「アザールは本当にいい選手だと思う。彼はファンタスティックで偉大な選手の一人だ。だが、ケインがイングランドフットボールに残したインパクトは絶大だった。おそらく、それはアザール以上だった。
アザールが才能ある選手だということは、みんながすでに知っていたことだ。しかし、ケインがこれだけのパフォーマンスを披露すると思っていた人は、それほど多くなかっただろう。この点が重要になると私は信じている」
ケインはあと1得点で、シーズン30得点を達成する。トッテナムの選手としては、1991-92シーズンのガリー・リネカー氏(35得点)以来の記録となる。
また、ケインは現在リーグ戦19得点。D・コスタ、セルヒオ・アグエロ(マンチェスター・シティ)と並び、得点ランキングのトップを走る。イングランド人が得点王となれば、99-00シーズンのケビン・フィリップス氏(当時サンダーランド)以来、実に15季ぶりとなる。年間最優秀選手賞だけでなく、これらの快挙達成にも注目が集まりそうだ。
阪神の能見は直球、変化球がさえ7回1失点で今季初勝利を挙げた。ゴメスが一回に先制打、1―1の六回に勝ち越し適時打を放った。巨人は連勝が5でストップ。田口は六回途中まで2失点でプロ初黒星を喫した。
黒田は大学時代に150キロの球速をマークし、一部で注目されるようになってはいたが、大学日本代表に選ばれることもなかった。黒田は著書「決めて断つ」の中で、プロ入り前の心境をこう述懐している。
〈当時は逆指名制度があったので、大学生でも実力があれば球団を選ぶことができた。けれど自身にそこまでの実力が身に付いているとは到底思わなかった。僕としては逆指名なんておこがましく、プロに入れてもらって、入ってからなんぼの世界だと思っていたから、どの球団だって関係なかった〉
大学時代は無名に近い存在だった黒田だが、いち早く目をつけていたのが広島の苑田聡彦スカウト(現・スカウト統括部長)である。広島から遠征し、神奈川県伊勢原にあるグラウンドにたびたび足を運んでいたという。苑田スカウトの熱意にほだされ、恩義を感じた黒田は、96年のドラフトで広島を逆指名(ドラフト2位)。プロ野球選手としての第一歩を踏み出した。
「97年1月にドミニカのカープアカデミーに自主トレに行ったんですよ。当時、僕は広島の正捕手だったんですけど、球団からは『(黒田と同期入団で逆指名のドラフト1位だった)澤崎(俊和)のボールを受けて来い』と言われてね。他にも若いピッチャーが参加したけど、そこに黒田の姿はなかった。澤崎のほうが明らかに、将来のエースとして期待されていました」(西山氏)
同年2月のキャンプでは1軍に呼ばれた黒田だったが、オープン戦が始まると2軍落ち。そこで、さらに黒田はプロの厳しさを痛感する。由宇球場で行われた中日との練習試合での出来事だ。当時、広島の2軍監督を務めていた安仁屋宗八氏が振り返る。
「確か、黒田は次の日が大学の卒業式で、チームから離れることになっていたんです。そこで中継ぎ登板させたら、メッタ打ちされた。2点、3点と失点するたびに、不安気にベンチをチラチラ見るんですよ。でも、僕は自分でまいた種は自分で刈り取れというタイプだから、結局、1イニングで10失点したけど、3アウトを取るまで交代させなかった。ベンチに戻って来た黒田は顔面蒼白になって茫然としていたね」
メンタル面でまだ課題を残し、発展途上だったという。それでもシーズンが開幕すると、ルーキーながら1軍で先発ローテーションを任され、6勝をあげた。ただし2年目はわずか1勝に終わっている。3年目も5勝8敗、防御率は6点台だった。逆指名入団だけに、首脳陣は即戦力として期待していただろうが、その期待を裏切り続けたのだ。
「僕が出すサインに嫌そうな顔をする若い投手もいたけど、黒田はサインどおりに投げてきました。年上の僕に遠慮していると感じることもあった。だから、監督や投手コーチに『黒田は僕と組むと萎縮するんで、他のキャッチャーを使ったほうがいいですよ』と進言したこともあったほどです」(西山氏)