政治そのほか速
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
ただいまコメントを受けつけておりません。
柱は太平洋戦争末期、鹿児島県田布施村(現・南さつま市)にあった万世(ばんせい)飛行場の裏門だった。特攻基地として有名な知覧飛行場(鹿児島県南九州市)の西約15キロの海岸に、突貫工事で造られた飛行場が使われたのはわずか3か月。軍の内部でも存在が秘匿され、遺構もほとんどないため詳しい情報がなく、「幻の特攻基地」と呼ばれていたが、昨年11月、やぶに埋もれていた裏門が見つかったのだ。
「ここに、確かに滑走路があったのです」。地元で生まれ育った高木敏行さん(81)は松林を切り開き、土をならしただけの滑走路が海に向かって延びていた光景を覚えている。友達と近くの丘に登ると、若い飛行兵らが声を合わせて歌う姿が見えた。ほどなくして飛び立った戦闘機が左右に3回、翼を振って空のかなたに消えて行き、誰かが「あれはサヨウナラの合図だ」と教えてくれた。
1945年4月、米軍が沖縄本島に上陸すると、周辺を埋めた米艦船を目指し、知覧や鹿屋など九州各地の基地から若者が飛び立った。万世からも米軍の爆撃で特攻機が飛べなくなる6月まで計121人が出撃。戦隊員らを含め201人が亡くなった。
先月13日の慰霊祭に参列した埼玉県新座市の上野辰熊(たつくま)さん(86)は、万世特攻平和祈念館に飾られた飛行服姿の少年たちの写真に向かって「みんな、久しぶり」と語りかけた。少年飛行学校の同期生5人が沖縄で米艦船に突入したのは45年5月27日。上野さんが第66戦隊の操縦士として万世飛行場に着任する2日前だった。写真は出撃の前日に撮られたものだ。
「20歳にもならない彼らがここから飛び立ったことを伝えるのが、生き残った私の使命だと思っています」。69年前の少年兵たちのあどけない笑顔の前で、上野さんは静かに話した。
写真と文 大原一郎