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2000年度以降新設された「総合的な学習の時間」。
教科の枠にとらわれない探究的な学習で考える力を育むのが目的だが、ゆとり教育の象徴として批判も受けた。学校では今、どのように取り組んでいるのか。
京都府南丹市の山間部にある市立美山中学校では、3年生が総合学習の授業で地域住民の生き方に関する「聞き書き」を行っている。11月下旬には、生徒25人がグループに分かれて、自然ガイドら9人に聞いた話を文章にまとめた。「雪かきなど大変なことも多いが、人のつながりが濃いところがすてき」。兵庫県加古川市からIターンで移り住んだ女性(26)からそう聞いたグループは、「美山の良さを改めて感じた」。
過疎化に直面する地域と自分の将来を考えようと、03年度から3年生が取り組んでいる。学習指導要領の改定で12年度からは総合学習の授業時間数が減少。同中では年間20コマあった聞き書きの授業を18コマにせざるを得なかった。3年の学年主任、小野猛教諭(51)は「自主的な学習につながっている。体験を通して得られることは多い」と今後も続ける予定だ。
総合学習は教科書がなく、学ぶ内容は様々だ。実践を積み重ねて独自の授業を確立させた学校の一方、国の教育課程特例校の制度を利用し、総合の時間に英語などを教える学校もある。
東京都港区では、06~07年度に全区立小の1~6年で英語に慣れ親しむ「国際科」を始めた。3、4年生は総合学習を週1コマ分削り、国際科の授業に充てている。区教委は「地域には外国人が多く、英語の学習は保護者からのニーズが高い。総合の目的の一つである国際理解の要素も含まれている」とする。
総合学習で教科の授業時間数が減り、学力低下につながったとの批判もあるが、今年度の全国学力テストでは総合で探究的な学習に取り組むと答えた児童は取り組んでいない児童よりも、活用力を問う小学校国語B、算数Bとも18・7ポイント高かった。文部科学省の田村学教科調査官は「活用する力などは探究的に学ぶ総合でこそ育てることができる。学校によって学びの質に差があり、いかに探究的な学習にしていくかが今後の課題だ」と指摘した。
総合的な学習の時間は、2000年度から段階的に始まり、小中学校では02年度から全面実施された。その後、経済協力開発機構(OECD)の国際学習到達度調査で日本の順位が落ちるなどしたため、現行の学習指導要領では時間数を削減。小学校で週3コマが2コマになるなどした。
「教育ルネサンス」では、「総合学習を生かす」(10年11~12月)で美山中の聞き書きなどを紹介した。(名倉透浩)
背広のポケットにしのばせた真っ赤な丸いスポンジを鼻に付けると、道化師のとぼけた表情になった。
昨年12月中旬、東京都品川区の昭和大学病院内にある区立清水台小・院内学級。副島(そえじま)賢和(まさかず)さん(48)の姿に、子どもたちが笑顔を浮かべ、名前にちなんで「ソエジー」と呼びかけた。
昨春まで8年間、院内学級の担任を務め、同大准教授になった今も、週3日は足を運ぶ。入院中の児童4、5人に勉強を教えたり、一緒にゲームを楽しんだりしている。
かつては、小学校の熱血教師だった。休日には子どもたちを引き連れて隣の小学校に出かけ、サッカーの対抗戦に汗を流した。だが、29歳の時、病気で肺の一部を失い、激しい運動ができなくなった。「もう子どもたちと一緒に走れない」と落ち込んだ。
その後、高校生になっていた教え子が亡くなった。病状が急に悪化し、見舞いにも行けなかった。「病室でどんなふうに過ごしていたのだろう」。心が痛み、闘病中に知った長期入院の子どもたちが頭をよぎった。「退院すれば幸せになるのだからと安易に考えていたが、病院の中だって幸せになる方法はあるはず」。院内学級への異動を希望した。
平日の4コマの授業を受け持ったが、子どもたちはなかなか打ち解けてくれない。病気やけがへの不安を抱え、思うように勉強もできず、自信を失っているようだった。「笑顔を取り戻してほしい」と病院で活動するホスピタル・クラウン(道化師)の研修を受けた。
授業では、自分の失敗をあえて見せるようにした。時には漢字の書き順をわざと間違える。子どもから突っ込まれると、「ごめん。よく教えてくれたね」と辞書を手にとる。「失敗してもいい」とわかれば安心し、自分でもやってみようという気持ちになれるからだ。
教室には、握りずしや菓子など、子どもたちがカラフルな紙粘土で作った「どうしても食べたいもの」が並ぶ。「病気で食べられないつらさ、悲しさ、怒りを表に出すことで、次に向かうエネルギーに変えてほしい」と願う。
様々な病気で入退院を繰り返す子どもが多く、学級の顔ぶれは頻繁に変わる。6回入院し、今は大学に通う女子学生(20)は「そっと、でも、しっかりと私たちを見ていてくれた。先生の前だと、病気の不安や将来への恐れもなぜか言えて、友達に会ってみよう、とか思えた。勇気をもらった気がする」。
子どもたちから「魔法使いみたい」と言われる副島さん。本人は「不思議な力を持っているのは子どもたちの方。教師にできるのは、心の蓋(ふた)を取り除くきっかけをつくり、そばにいることだけ」と話した。
学校、塾、NPOなど様々な場で子どもたちを教え、支える人たちがいる。
先が見通しにくい時代。その生き方をたどり、語られた言葉を通して、これから求められる教師像を探りたい。
「精神的に弱ると、全てが面白くないって時があるんだよ」
昨年12月中旬、名古屋経済大学高蔵(たかくら)高校(名古屋市)の3年生の教室。戦後の街が舞台の中野重治の小説「おどる男」を取り上げた国語の授業で、主人公の気持ちを想像できない生徒たちに、酒井弘樹教諭(43)が語りかけた。「先生もプロ野球をクビになった時、そうだった」
1993年、ドラフト1位で近鉄(現オリックス・バファローズ)に入団。背番号「18」をつけた。約150キロの速球を武器に、中継ぎとして60試合に登板した年もあった。しかし、肘の手術後、球速が戻らず、移籍先の阪神で自由契約に。2002年、31歳で引退した。
長男も野球をしていたが、自宅のテレビで試合が映るとチャンネルを変えさせた。「一緒に試合を見に行こうか」と言えたのは4年後、同校に就職が決まってからだった。
「自分に充実感がないと、余裕を持って周囲に接することができない。駅の注意書きにも腹を立てる小説の主人公の気持ちがわかるよ」
実人生を例にした授業に、生徒たちが聞き入った。男子生徒(18)は「国語だけでなく、人生についても学べる」と話した。
引退後、すんなりと教師になったわけではない。
知人の紹介でOA機器会社に就職。営業の仕事をしたが、うまくいかず、ストレスで帯状疱疹(ほうしん)に。「野球を生かした仕事をしたい」と高校野球の指導者になることを考えたが、当時は日本学生野球協会の規則で2年以上の教員経験が必要だった。
「思い切って仕事を辞めて、先生に向けて挑戦してもいいんじゃないの」
妻の敏江さん(49)に背中を押され、1年で退職。国学院大生だった時に教職課程の一部の単位を取得した国語の教師を目指し、アルバイトをしながら同大で2年かけて教員免許を取得した。野球が強い私立高校を希望したが、断られ続け、将来の野球部設置を検討中だった高蔵高校にようやく決まった。
生徒約1300人、教師約70人の大規模校。35歳の新人教師は「毎日が緊張の連続だった」。自信がなく、国語の教師に頼み、生徒と机を並べた。自分の授業の合間に1年間、生徒のようにノートを取り、声の掛け方や板書の方法などを身につけた。
教師になって2年後、野球同好会を作った。集まった9人の多くは野球の経験がなかった。練習場所もなく、ボールが当たると危ないので、駐車場で古いバドミントンのシャトルを打った。バットの振り方から教え、当たると一緒に喜んだ。
翌年野球部になり、今では部員は1、2年生だけで50人いる。昨秋の県大会ではベスト16に入った。いつかは甲子園に出場して日本一になりたいが、勝利だけが目標ではない。あいさつや礼儀も大切にするよう、強調している。
プロ野球選手時代を振り返ると、生意気な性格で、コーチらによく、口答えした。謙虚でなかったから、引退後苦労した。人生をやり直すことができたのは、支えてくれた人たちのおかげだと、今はわかる。
「子どもたちには、失敗を恐れず挑戦し、もし挫折したら、原因を考えてプラスに変えていってほしい。そのために、私の失敗した経験を伝えたい」
これからも、教室やグラウンドで、自らの生きざまを話していくつもりだ。
教師像の変遷について、教育評論家の尾木直樹さん(68)=写真=に聞いた。
僕が私立高校の教師になった1972年当時、教師は尊敬の的でした。
大学進学率は、まだ2割程度。学歴社会が形成される真っ最中で、生徒を高校、大学の受験競争に勝ち抜かせるのが、教師の役割だったんです。漢字が書けなければ、何十回でも練習して頭にたたき込め、といった風潮がありました。
ただ、レールに乗れない子はいます。80年代には校内暴力の嵐が吹き荒れました。その頃、反響を呼んだのが「金八先生」です。時には生徒を抱きしめ、一緒に泣く。非行の生徒にもひるまない。僕が勤めていた東京都内の公立中学校でも、そんな教師が生徒に信頼されました。僕も深夜まで「ツッパリ」の生徒と向き合い、ラーメンをすすりながら話を聞いたものです。
その後、いじめや不登校が増え、バブル経済崩壊後は、学級崩壊、モンスターペアレントなど「熱血」だけでは手に負えない問題が噴き出します。大学進学者が増えて高学歴の保護者が珍しくなくなり、教師の地位は落ちました。
「GTO」は元暴走族、「ごくせん」は任侠(にんきょう)集団の跡取り娘が教師として登場しました。複雑な問題を一挙に解決してくれる「スーパー教師」への待望の表れだったかもしれません。
グローバル化とIT化が進み、子どもたちは容易に様々な情報を入手できます。教師に求められるのは、知識を教え込むのではなく、子どもの特性を見抜き、自分の経験や人脈を生かしながら学びをサポートすることです。自ら学びへの情熱と好奇心を持ち、モデルを示してほしい。
教師と子どもの関係は時代によって変わってきましたが、教育で一番大事なのは両者がきちんと向き合い、信頼し合うこと。これだけは不変です。
山口県下関市の公民館に昨年12月末、全国から教師約60人が集まった。
同市立勝山小学校の福山憲市教諭(54)主宰の教師サークル「ふくの会」が開いた勉強会だ。
福山教諭が配った自作の問題プリントの1問目は、「『○人(うど)』という言葉を少なくとも5つ以上書き出そう」。若人(わこうど)、仲人(なこうど)……。1分間で書けた教師はゼロ。「わからない子の気持ちがわかるでしょう」と福山教諭。
その後、初対面同士の参加者に相談させ、「最初に名前を言ってあいさつした人は? 先生がしないと、子どももやらなくていいんだと思ってしまう」。「授業中、子ども同士で相談をさせた時は誰が声を掛けたかをよく見て、認めてあげて。正解を出す以外でも様々な視点で評価を」。テンポ良く、授業をする心得を伝授した。
広島県から参加した友田真教諭(30)は「一人ひとりを認める大切さがわかる。子どもが時間を惜しんで勉強したくなる授業につなげたい」と話した。
福山教諭は、母子家庭できょうだい4人を育てた母を助けたくて、安定した給料が得られる教師になった。1983年、最初の担任は小学2年生。先輩教師からは「勉強せないかんよ」と声を掛けられたが、「教える内容は難しくないのに」と理解できず、教師用テキスト通りの授業をしていた。
ところが、1か月ほどたった頃、社会科の授業中に女子児童が突然、大きな声で「面白くない、やめよう」と言い出した。他の児童も騒ぎ出し、つまらない授業だったことを思い知らされた。先輩教師主宰の自主勉強会に顔を出すようになった。
授業を報告するたびに、「威圧して抑えているだけで子どもを育てていない」「子どもの行動の理由を考えたことがあるの」と、参加者から批判された。学力やつまずきを踏まえてオリジナルな授業をするようになり、問題プリントも自作した。児童から様々なテーマで自主学習ノートが提出され、毎日高さ2メートル分になった。単元ごとのテストの平均点はどの教科も95点に上がった。
「子どもが勉強したいという気持ちになれば、学力は上がる。やる気に火をつけるのが教師」と確信した。
「子どもに学ぶ意欲を持たせるには、教師も学び続けなければ」と、教師になって3年目に、「ふくの会」を設立。月2回、勉強会を開催し、今年4月、設立30年を迎える。今も教材の提示や声かけの方法などの研究を続け、共著も含め二十数冊の本をまとめた。
勝山小では、2013年度から初任者の研修・教育を担当している。定年まであと6年。「若手を育てながら、『授業人』としての腕を上げたい」と、また担任をするのが希望だ。
おてんばな子で、家事も嫌い。掃除や洗濯をして一生暮らすのはごめんである。女性は結婚して家庭に入るのが一般的な時代でしたが、自分は仕事に就くんだと幼心に思っていました。
大阪の高等女学校に入り、英語の先生が人生の手本になりました。知的で、個性的だった。その先生方が出た学校が、東京にある津田塾専門学校(現・津田塾大学)。さらに、仲の良かった友人のお姉さんも津田で学んでいて、帰省の時にトランクを手に近くの駅に降り立った姿に憧れたものです。そこに行きたいと思い、17歳の時、親元を離れて入学しました。
でも、理想と現実のギャップは大きかった。食糧事情が悪く、寮の食事も粗末なものでした。授業では、英語の字引ばかりひかなきゃいけない、教科書もつまらない、面白い先生も少ない……。津田の中で私、優等生ではありませんでした。勉強そっちのけで、演劇部の仲間やクラスメートと遊んでいました。寮でのおしゃべりも楽しかった。
後々、後悔はしています。その後の職業生活で英語が大事だったけれど、思うように英語が使えないのは、津田でさぼったからですね。
津田を出て、東大法学部に進学しました。法学部を出ておけば男の子と対等にスタートを切れると思ったのです。国家公務員試験を受けた動機も同じです。
10代後半の頃、親のそばにいる方がずっと楽というのはわかっていた。でも人生、飛ばなきゃと思っていたのね。飛ぶにはエネルギーがいる。その原動力になるのは憧れなんですよね。津田は、私が東京へ出るきっかけを作ってくれた憧れの学校。津田を出たことで、人生が広がりました。(聞き手・山田睦子)
(2014年12月11日付読売新聞朝刊掲載)