政治そのほか速
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もともと女優志望ではありませんでした。
成蹊中学校(東京都武蔵野市)時代の恩師からの手紙がなければ、全く違う人生を歩んでいたかもしれません。
その手紙は、静岡県立三島北高校2年のときに届きました。私は中学2年で父を亡くし、家族で東京から静岡に引っ越していました。手紙の主は、成蹊中時代、演劇部でお世話になった松田満夫先生でした。「芝居をやりたいと思っているのなら」と、俳優座養成所の願書が同封されていました。
私は、幼いころから、新聞記者だった父に連れられて芝居を見たり、文学作品を読んだりして育ちました。歌や踊りも好きで、小学校(成蹊小)の学芸会でトルストイ作品の舞台に出演したり、成蹊中の演劇部では松田先生の指導で「うりこひめ」役を演じたりしていました。
三島北高校でも演劇部に所属していましたが、将来は大学に進学して保育園の先生になりたいと思っていたのです。
そんな私を忘れず、松田先生が手紙をくださったことに驚きました。俳優座の存在すら知りませんでしたが、思い切って願書を出しました。3年生になる前の春休みに上京して受けた試験では、素足にスクール水着姿で、ピアノの伴奏に合わせて踊ったことを覚えています。
結果は合格でした。最初はうれしくて、高校を辞めてすぐに養成所に行きたい気持ちでしたが、松田先生に報告すると「入所は、卒業してからがいい」と言われ、その通りにしました。
学校時代は、素晴らしい先生や仲間との出会いが、ほかにもたくさんありました。松田先生はじめ、その絆を今も大切にしています。(聞き手・鳥越恭)
(2014年8月21日付読売新聞朝刊掲載)
各地の小中学校や病院へうかがってコンサートを開いています。音楽の楽しさを伝えられたらと、15年前に始めて100回以上になりました。リクエストがあれば、アニメの「妖怪ウォッチ」の曲も弾きますよ。子供たちは身を乗り出して音を体で感じてくれるんです。
私自身が音楽の楽しさを実感したのは、大阪府豊中市立克明小3年の時です。当時20歳代前半だった出川宏子先生に音楽の授業でリコーダーを教わりました。初回は「シ」の音を吹くだけで終わり。先生は「来週の授業に特別ゲストをお招きします。ステキな笛の音を聞かせてくれるので家では笛を吹かないで我慢してください」と言うんです。
1週間後。バロック風のクラシック曲が流れる中、シックなベレー帽をかぶり、スモックを着て登場したのは、出川先生でした。「なんや」という声も漏れました。でも、先生は全く動じず、私たちの周りを歩きながらリコーダーを吹き続けるんです。すごく格好良くてわくわくしました。私は3歳からピアノを始めていたので先生の音楽が「本物」だとわかります。音楽に興味のない男の子たちが次第に笛の音に引き付けられていくのはマジックのようでした。
引っ込み思案で学校も休みがちだった私は、ピアノの仕事をするなんて思っていませんでした。でも、桐朋学園大の1年生の時、レコード会社からデビューのお話をいただいて、あの授業を思い出し、「音楽を楽しんでもらうことは、できるかもしれない」と、決心できたんです。学校コンサートや、東日本大震災の被災地にピアノを届ける活動を始めたのも同じ思いからです。あの授業が今の私を支えてくれていると感じます。(聞き手・広中正則)
(2015年1月22日付読売新聞朝刊掲載)
2013年に入社。太陽電池の背面に貼るシートを販売する営業の部署に配属された。
シートの製造・販売は、会社が参入したばかりの新規事業だ。写真フィルムの技術を応用し、湿気などから電池を守って耐久性を高めるという。
主な取引先は中国の太陽電池メーカー。最初は辞書を片手に中国語の契約書を日本語や英語に訳したり、商談時の提案資料を作ったりするなど、中国人の先輩社員のサポート業務が中心だった。
配属から2か月後の8月、先輩社員に同行し、初めて中国に出張した。中国語は大学時代に第2外国語で学んでいたが、「商談では会話がほとんど理解できず、悔しい思いをした」と振り返る。
その後、語学学校に通うなど努力を重ね、今年に入ってからは、中国語でコミュニケーションが取れるようになってきた。
日本の太陽電池市場など取引先が関心を持ちそうな話題は、つたない中国語でも聞こうとしてくれることがあり、「自分のできる範囲が広がってきた」と実感する。
性能チェックなどを受け、シートの供給が決まっていた中国メーカーから、具体的な発注がなかなか来ないケースがあった。メーカーの日本支社に事情を説明し、中国の本社に発注を促してもらい、販売にこぎつけることができた。「自分の働きかけが実績につながり、やりがいを感じた」
上司の牧野純一さん(47)は「日々成長しようと努力している。中国以外にも様々な商品の営業活動の場を広げ、グローバル人材として活躍してほしい」と期待する。
大学ではメーカーの経営戦略を学ぶゼミに所属した。また、留学生のクラスメートと仲が良かったことなどから、海外で事業展開する会社に興味を持った。就職活動では、3社から内定を得たが、最も早く海外勤務できそうな富士フイルムに決めた。「会社の技術を生かして新興国の課題を解決する新製品を企画し、広めていくのが夢。海外に駐在できたら、現地のニーズを肌で感じ取りたい」と望んでいる。(山田睦子)
(2014年9月30日の読売新聞朝刊に掲載)
2013年の入社以来、横浜市内の研究所に勤務。
ガス管の強度や耐震性のチェックをいかに効率良く行うか、研究を続ける。
ガス管を溶接した部分に、傷などがないか調べるときは、エックス線などを使って内部を見る「非破壊検査」が行われる。これをパソコン上で模擬的に行って、実際の検査の効率を高める方法をみつけるのが今の仕事だ。
パソコンを使った模擬実験は、社内で初めての試みで、担当者は自分一人。最初は仕事の進め方に自信が持てず、必要なパソコンソフトの選定に1か月もかかるなど、「迷っている時間がもったいなかった」と振り返る。
上司からは「相談に来るのを待っていたのに」と言われてしまい、「周囲とのコミュニケーション不足を実感しました」。そこで、ソフトの導入時には、使い方の理解を深めるため、メーカーの担当者を招いて職場で講習会を開いたところ、「みんなで知識の共有ができた」と好評だったという。
上司の坂上貴士さん(38)は「最初は慎重すぎる面もあったが、今は新しいことにも果敢に取り組んでいる。周囲のアドバイスに耳を傾け、協調して仕事ができている」と評価する。
大学で地震工学などを学んでいた時、東日本大震災が発生。電気や鉄道、ガスといった社会インフラの甚大な被害を目の当たりにした。「勉強したことを早く社会に還元したい」と、大学院には進まず、学部卒での就職を決めた。被災地の子どもたちに勉強を教えるボランティアを、友人と一緒に企画した行動力などをアピールし、東京ガスの内定を得た。
「今の仕事は、大地震に強いガス管の設置にもつながり、やりがいを感じている。10年、20年後には、この道のスペシャリストになっていたい」と意気込んでいる。(高山千香)
(2015年1月27日の読売新聞朝刊に掲載)
「納得のいく就職活動ができませんでした。留年して、再挑戦した方がよいでしょうか?」
今の時期に、よく寄せられる質問です。就職のための留年(就職留年)については、慎重に検討する必要があります。
留年すれば、その分、卒業が遅れ、学費を支払わなければなりません。就職留年する学生の学費を軽減する大学もありますが、生活費なども含めた金銭的な負担が増えることに変わりはありません。それでも、「どうしても入りたい企業がある」などの理由で留年を考える場合、次のことを意識すべきです。
「景気は回復傾向なので、来年度の方が求人倍率は改善するのでは」などと期待しても、実際にどうなるかは、わかりません。また、経営戦略の変化で、企業が求める学生のタイプや選抜基準が、前年と異なる可能性もありますので、第1志望の企業に入れるとは限りません。
就職留年は、リーマン・ショック後に増えたと言われ、企業も以前より寛容になっていると感じます。とはいえ、選考では留年した期間にどんな成長、変化があったのかは問われます。
一方、留年せず、卒業した人に門戸を開く企業も増えてきました。ハローワークなども既卒者向けの支援を充実させています。もちろん、門戸を開いているからといって、必ず採用されるわけではありません。大学との接点が少なくなり、居場所がなくなる可能性もあります。
夏が過ぎても、求人はまだあります。よく考えて決断しましょう。(人材コンサルタント)
(2014年9月9日の読売新聞朝刊に掲載)